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ハンギングロック:後藤の失踪(22)

 この火災はオーストラリア中の人々を震撼させた。この火災が起こった日が土曜日だったので、「ブラック・サタデー(黒い土曜日)」と呼ばれるようになった。その日から連日森林火災の特報がいつもは30分の夕方のニュースを1時間に延長して流された。死者の数も毎日多くなっていき最終的には200人近くにものぼった。テレビには、ヘリコプターから見える立ち入り禁止区域の光景が映し出されていたが、焼けただれて真っ黒になった木々が棒のようになって立ち並び、トタン屋根とレンガ造りの煙突だけが残ったぺしゃんこになった家屋だけが点々と見えるだけで、見渡す限り人間の生きている気配はおろか動物の気配もなかった。夏だというのにそれはまるで冬を描いた水墨画のように白黒の世界だった。生き残った人がテントをはって仮住まいをしている姿も映し出され、どうやって九死に一生を得たか体験談を語っていた。赤十字では、生き残った人たちへの救済のための寄付金を呼びかけていた。そんなニュースを見ていて、狩野は、歩道でインタビューされている人の後ろを横切った人物の顔を見て、あっと心の中で声をあげた。ひげを生やしているが、間違いない。あれは後藤だった。インタビューされた場所はどこだろうと目を凝らしてみると、それは狩野がロビンたちと別れた避難場所だった。

はやる胸を押さえて、誰に連絡したものかと考えた。警察?いや、警察は今森林火災の後始末で忙しくしている。行方不明者に似ている人物の捜査にすぐに乗り出してくれるとは思えなかった。彼が危険な状態にいるというのならともかく、生きているのだ。そうだ、聡子に連絡してみよう。彼女は再婚したということだが、子供たちはまだ土曜日の補習校に通っているかもしれない。狩野のクラスをパートで手伝っていてくれる大学院生の西村京子は、土曜校でアルバイトをしていると言っていた。西村にまだ後藤の息子たちが土曜校に通っているか聞いてみようと思うと、すぐに受話器を取り上げていた。

西村は狩野の突然の電話に戸惑ったようだ。無理もない。いつもは電子メールで連絡を取り合っている狩野が、突然家に電話してきたのだから。

「あのう、何でしょうか?」

「確か、あなた、土曜校でアルバイトしているって言っていたわね?」

「はあ、そうですが」

「土曜校に後藤弘と後藤祐一という兄弟が通っていない?確かもう中学生か高校生になっているはずだけど」

「後藤祐一君なら、私のクラスにいますよ」

狩野はなんてラッキーなんだろうと思って、思わず声が大きくなった。

「本当?その子の家の電話番号、分からないかしら?」

そう言うと、西村の声に不審の翳がさした。

「後藤君がどうかしたんでしょうか?」

「ああ、あなたは5年前のことだから知らないわね。昔メンジーズ大学に後藤先生って方がいらしてね、5年前彼が行方不明になったの。後藤祐一って言うのはその後藤先生の息子さんなの」

「そうですか。クラス名簿を見てみますから、ちょっとお待ちください」

5分ばかり待った後、西村が電話に出てきた。

「すみません。お待たせしました。後藤君の家の電話番号は、9344-7563になっています」

聞いた番号を電話機のすぐそばにおいてあるメモ帳に書き留めると

「ありがとう」と狩野はすぐに電話を切った。そしてすぐにまた受話器を取り上げて、聡子の家に電話した。後藤が生きているという話に対して聡子がどんな反応を示すかわからないのが、狩野には不安だった。

「ハロー」

出てきたのは低い声の男だった。聡子の再婚相手に違いない。

「ハロー。私、狩野洋子と言いますが、聡子さんいらっしゃいますか?」と言うと、すぐ聡子を呼ぶ声が受話器を通して聞こえた。

「だれ?」聡子が聞いている。

「ヨーコっていっているけど」

「ヨーコ?どのヨーコさんかしら?」と言いながら、聡子が電話に出てきた。

「電話代わりました。聡子です」

「ああ、聡子さん。私、狩野洋子です」

名前を言っても聡子はすぐにはぴんと来なかったようだ。無理もない。5年前に一度会ったきりである。

「メンジーズ大学で後藤さんにお世話になった者です」というと、

「ああ、あの洋子さん」とやっと狩野のことを思い出してくれた。

「ご無沙汰していますが、お元気ですか?」

「はい。おかげさまで。今日は、どんな御用でしょうか?」

突然の狩野の電話にとまどったようだ。

「実は、後藤さんらしき人を見かけたんですが」

「えっ?」

聡子は驚きで一瞬声を失ったようだった。しばらくして、聡子の声が聞こえてきた。

「どこで、見たんですか?」

「キングレークのはずれの公園です」

「キングレーク?あの山火事の被害にあった?」

「ええ。ニュースで見かけたんです」

「それじゃあ、後藤は生きていたというんですか?見間違いではありませんか?」

「ニュースで出てきた人はあごひげをはやしていましたが、後藤さんに間違いありません。私、キングレークに行って見ようかと思っているのですが、聡子さんも一緒にいらっしゃいませんか?」

「私、もうあの人とは赤の他人ですからね。私が探しに行く必要はないと思いますが」

冷たい言葉に、狩野は少し驚いた。

「聡子さんにとっては他人かもしれませんが、弘君と祐一君にとっては、お父さんではありませんか?」

「お父さん?もし彼がどこかに身を隠していたのなら、もう弘と祐一の父親だと名乗る資格ありませんよ。親としての責任を果たしていないような人に」

段々怒りがこみ上げてくるようで、聡子は興奮気味に言った。

狩野は、聡子の態度にがっかりしたが、これ以上、自分とは関係のないことで、他人と押し問答をするのがいやになってきた。

「分かりました。失礼します」と、一方的に電話を切った。

聡子とどうすればいいか相談しようと思った計画はもろくも崩れ、自分一人でキングレークに行かなければいけないはめに陥った。キングレークのあの避難所は、未だに家に帰れない人で込み合っているようで、そんななかに行くのはためらわれた。しかし、あれが後藤だったら、どうして今まで身を隠していたのか聞きたくて仕方なくなった。

著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤失踪(21)

我に返ったアレックスが開けると、緊張した顔の警官が二人立っていた。

「すぐに、避難してください。山火事が迫っていますよ」

4人はお互いの顔を一瞬見合わせたが、すぐにハンドバックなど貴重品を手にすると車に飛び乗った。アレックスの車が警官が運転するパトカーの後につき、モニークの車がその後を追った。夏の夜の7時過ぎはまだ明るいはずなのに、黒い煙に覆われて真っ暗だった。車の窓を閉めていても、煙が入ってきて、きなくさい匂いが車の中を漂った。アレックスの車のテールランプを見逃さないように後について運転するモニークの顔は緊張で引きつっていた。視界が悪い上、ゴーッという音が段々近づいて来る。火が段々自分たちに迫っているのだが、その火がどこから迫っているのか見当がつかない。狩野の目は前に見えるテールランプに吸い寄せられ、手は固く握りしめられていた。その手が汗でにじんでいるのをその時は緊張の余り気が付かなかった。モニークが一言小さな声で言った。「燃える木が道路に倒れて、通行止めになっていなけれいなければいいんだけど」その言葉を聞いたとたん、狩野はパニック状態に陥った。燃え落ちた大木が道路に倒れて、ゆく手を遮っているのを想像したのだ。こんな所で車から放り出されてしまうと、あの巨大な炎に飲み込まれて、一瞬のうちに、私の体は灰と化してしまうだろう。焼け死ぬ苦痛を想像すると、思わず「神様、助けてください」と心の中で祈っていた。

それは何十分かかったのか、分からない。段々あの不気味な音が遠ざかり、煙も薄れて明るい空が見えてきたとき、「たすかった!」と狩野は思わず言った。そして、神に感謝した。

パトカーが誘導して連れて行ってくれた所は近くの町の中心街の側にある広場だった。中心街と言っても一本の道路の両側に50メートルくらい小さなスーパーやパブが並んでいるだけのところである。そこはいつもは観光客と近くの村の人が集まるくらいの静かなところだろうが、その日は近辺から避難してきた人たちでごったがえしていた。道端に放心状態となって座り込んでいる人。半狂乱になって家族の行方を捜している人。消防員、警官。みんな血走った目をしていた。狩野は動揺する心を抑えて車を降りると、モニーク達と共に警官に誘導されて広場のほうに行った。広場には俄仕立てのテントがはられているところだった。

警官がまだ仕事が残っているからと言って立ち去った後、狩野たちは毛布と紅茶を手渡されテントを割り当てられた。その晩はテントで一泊することになった。紅茶を飲んで気を取り直したとき初めてモニークが口を開けた。

「大変なことになったわね。こんな火災になるなんて思いもしなかったわ」

「ごめんね。こんなことになることが分かっていたら、あなたを誘わなかったのに。実はきのう消防署の人の主催する火災に備えるための集会が開かれたのよ」ロビンはそういいながら昨日の集会のことを思い出した。

黄色い消防服を着た消防署員が、不安そうな顔をしている住民を前にして、言ったものだ。

「明日は44度で北風が強いと予報が出ています。皆さんもご存知のように、先週は3日も40度を越える日が続いている上に、雨が2ヶ月も降っていません。今潅木は枯れ、大地は乾ききっていて、火がつけばすぐに燃え上がる危険な状態になっています。火事に備えられないと思う人は早めに避難してください。家を守りたい人は、庭の枯れ木は取り除き、家の周りの燃えやすい木は切り倒し、家の屋根や壁を水浸しにしてください。ともかくラジオの情報に注意を払ってください」

ロビンたちは、そんな消防署員の警告を真剣には受け止めなかったのを後悔していた。

一体どこで火事が起こり、どこまで広がっているのかの情報が入らないまま、狩野たちはその晩は不安な一夜を明かした。

その火災の被害の状況が翌日になってだんだん分かってきた。昨日の気温は46.4度。記録的な暑さだったのだ。死者は少なくとも100名はいるということだった。全壊した家は2000軒以上。ほとんどの死者は灰と化してしまっていて、DNAでの身元確認もままならない状態だという。逃げる途中黒い煙に巻かれて視界が遮られ、対向車にぶつかり、その後ろをまた他の車に追突され、何台もの車が玉突きになり、その車が炎に巻き込まれ、灰と化した人々もいたということだ。その人たちが事故で死んでいたのならともかく、車を出られない状態で焼き殺されたのかと思うと、狩野はぞっとした。パブのテレビに映し出された車はまるで爆弾でも落とされたように、窓は溶け、中もただれきって、椅子もハンドルもギアも全部溶けてなくなっていた。中には車にまでたどり着く暇もなく、家が炎の壁に包まれて燃え上がり、家の中で人間の姿も残さず灰となった人々も多くいたそうだ。そういう情報を見ていて、狩野は「自分たちはなんてラッキーだったのだろう。あの警官たちが誘導してくれなかったら、自分たちも、死者の数にいれられていたに違いない。それに、私たちには帰る家がある。ロビンにしても別荘なので、全部の財産をなくしたわけではなかったのが、幸いだった」と自分の幸運を感じたが、犠牲者のことを考えると心から喜ぶ気持ちにはなれなかった。

ロビンたちは、自分たちの別荘がどうなったかを見に行きたがったが、道は通行止めになり、住民たちもそこに戻ることは許されなかった。放火の可能性もあり、火災の原因が突き止められるまでは犯行現場として取り扱うので、火事の焼け跡を乱してもらっては困るということだった。仕方なくロビンたちもメルボルンに戻ることにした。その田舎町でロビンと別れた後、狩野たちはメルボルンに向かったが、帰る道中、二人ともそれぞれの思いに沈んで、寡黙になった。帰りの道中でモニークが一度も車を追い越そうとしなかったのが、いかにモニークが火災のショックから立ち直れないでいるかを物語っていた。狩野はその日自分のアパートに戻った時はぐったりして、その翌朝のお昼過ぎまでぐっすり眠った。

著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤の失踪(20)

  後藤が失踪してから5年の月日が流れた。
 5年の間に色々な変化があった。後藤の息子の弘は高校生になり、祐一は中学生になっていた。後藤の失踪後、今までやんちゃ息子だった二人が口数の少ない子に変わってしまった。聡子が弘の同級生のカイリーの父親と再婚すると、ますます二人の顔から笑顔が消えてしまった。父親が消息不明になったことだけでもショックだったのに、今まで二人だけのお母さんだと思っていた聡子を他人と共有しなければいけなくなったのは、二人にとって面白くなかったのだろう。聡子自身は今はカイリーも含めた3人の子供たちの世話に明け暮れていた。一方、狩野は、大学から5年の契約が切れたところで、準教授として任命され終身雇用となり、今ではメンジーズ大学で、押しも押されぬ中堅の日本語教師となっていた。
 2月にはいって、狩野はモニークに、モニークの友人が持っているという別荘に行こうと誘われた。1年前からモニークと一緒に、日本語学習者の学習の動機とフランス語学習者の動機とを比較する共同研究を始め、親しくなっていたのだ。モニークも独身なので、独り者の狩野は誘いやすかったようだ。メルボルンは、その前の週は、40度を越す猛暑が3日も続き、皆その暑さに参っていた。メルボルンでは40度を越す日もあるが、通常1日だけですぐにクールチェンジが来て20度台に気温が下がる。3日も熱風に見舞われたのは、初めてのことだった。地球温暖化の影響だとマスコミは騒ぎ立てた。その熱波が去って、また25度前後の涼しい日が戻っていたが、狩野が誘われた土曜日も、また気温が44度になるということだった。用のない人は外出しないようにと消防署から呼びかけがあったが、車で出かけるのでクーラーさえつければ暑さはしのげると、モニークと軽口をたたきながら出かけた。狩野はモニークの運転する車に初めて乗ったのだが、モニークは普段は人を罵倒することなどない人なのだが、車を運転し始めると人が変わったように短気になり、前の車がのろのろ運転しているとすぐに追い越そうとする。1車線しかない道で前の車を追い越そうとして右車線に入ったとたん対向車が目に入った時は、狩野はヒヤッとした。幸運にも、対向車とすれ違う時までにはまた左車線に戻ったので、衝突しなくて済んだのだが、このときばかりは狩野は自分の車で来なかったことを後悔した。途中から舗装されていない山道に入り、道の両側は高い木々に取り囲まれ、人家が見えないところに入った。それから10分ほどして目的の別荘に着いた。車を降りたとたん熱風に襲われ、一瞬のうちに汗がどっと出て、それがすぐに乾燥した空気で吸い上げられていくのを感じた。二人とも慌てて、ロビンのうちに駆け込んだ。ドアの前に立つとすぐにドアが開けられドアの向こう側には車の音を聞いて待ち構えていたモニークの友人のロビンと彼女の夫のアレックスが立っていた。モニークはロビンとアレックスと抱き合って、両頬にキスをして挨拶をしたあと、ロビン夫妻に狩野を紹介してくれた。
「こちら、ヨーコ。日本語を教えている同僚。こちらロビンとアレックス。ロビンとは大学院が一緒だったの」
「はじめまして。モニークと大学院が同じだったということは、フランス語がおできになるんですね」
「ええ。フランス語は簡単だからね。日本語は難しいって聞くけど、ほんとう?」
「そんなことないですよ。読み書きは英語話者には難しいかもしれませんが、話すのは、簡単ですよ。英語ほど音のバラエティーがないから」
そんな会話を交わした後は、ロビンが家の中を案内してくれた。大きな2階建ての家は応接間が吹き抜けになっていた。上を見上げると、天井には大きな木の梁がめぐらされて屋根裏が見えた。まだ出来て間もないらしく、木のいい香りが漂った。
「ここを使って」と言って案内されたベッドルームにはシングルベットが二つあった。モニークと二人で泊まれるように準備していてくれたらしく、それぞれのベッドの上にはきれいに折りたたんだバスタオルが置かれていた。
「ここがトイレ」「ここが、浴室」「ここが洗濯場」と案内されたところはまだみな新しく、清潔な感じがした。
 暑い日なので、カーテンは締め切られていて、家の中は少し薄暗かったが、窓がたくさんある家で、いつもは太陽の光が一杯に入って、明るい家なのだろうと狩野にも容易に想像できた。
 狩野達は本当はその日は色んな観光巡りをしたかったのだが、余りにも暑いので、結局家の中で、皆とおしゃべりをして過ごした。
 その会話の中でロビンは高校のフランス語の教師、アレックスは高校の数学の教師だと分かった。二人は田舎の生活にあこがれていたので、山中にある別荘を買い、週末はたいていここに来て過ごすということだった。四人とも明日は最高気温が28度に下がるというので、明日になったら山の中の探索に出かけようと話した。
それは、ロビンとモニーク、そして狩野も手伝って作った夕食をすませた後だった。ゴーッとジェット機が10機くらいも飛んでいるような音がし始め、その音が段々大きくなってくるのに、皆気が付いた。地の底から湧きあがってくるような不気味な音だった。アレックスが窓のカーテンを開けてみると、10キロ先の森が大きな炎に包まれ、10メートル以上はあると思われる炎の壁を作ってこちらに凄まじいスピードで迫って来ているのが見えた。4人はショックで身動きも出来ず唖然とした。その時ドアをノックする音がした。
著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤の失踪(19)

その翌日、狩野は初めてハンギング・ロックに行ってみた。
狩野の家から車で1時間半。ハンギング・ロックの近くまでハイウエーが通っており、制限時速が120キロなので、120キロで飛ばした。駐車場に車を停めると、まだ後藤の車があるかなと駐車場を見回したが、もう警察によってどこかに運ばれたようで、後藤の白いカローラは見当たらなかった。日曜日だが、冬の肌寒い日で曇り空なためか、狩野の車以外に2台しか車が停まっていなかった。駐車場からすぐにカフェが見えたので、そちらに足を運んだ。まだ昼ごはんには早いせいか、カフェには人影もなく、カウンターで40歳ぐらいの女が暇そうにしていた。
 狩野がテーブルに座ると、カウンターで暇そうにしていた女がメモ帳片手に注文を取りに来た。カプチノを注文して、聞いてみた。
「この間、ハンギング・ロックで失踪した人がいたようですね」
「あら、どうして知っているんですか?ああ、そういえば、新聞に載っていましたね」
後藤の失踪は小さく新聞の片隅に報道されていた。
「その失踪した人の知り合いなんですが、何かそのことについて知っていますか?」
「まあ、そうなんですか。実は私が警察に通報したんですよ。白いカローラが2日も駐車場に停まったままになっていましたからね」
「そうなんですか。その人、一人で来たんでしょうか?」
「さあ、あの日は観光客も多かったから…。警察からも写真を見せられたけど、全然気がつかなかったわ。だから、一人で来たのかも、いつ来たのかも、さっぱり分からないんですよ」
「そうですか、ありがとう」と言うと、その女、ジェーンはコーヒーを作りにカウンターの奥に引っ込んだ。
 狩野はもう警察で捜査済みだろうから、今更何か新しい手がかりになるようなものが出てくるとは期待してはいなかったが、後藤がいなくなったハンギング・ロックを一度見てみたかった。
 カプチノを飲み終わると、カフェの向かい側にある小さな博物館を覗いてみた。そこにはハンギング・ロックの成り立ちが詳しく説明してあり、その奥には「ハンギング・ロックでのピクニック」の映画の紹介が大きく書かれていた。小さな空間を最大限に生かすためか、カタツムリの殻のようにらせん状になった壁に情報を書いたポスターが貼ってあった。
 そこを出るとすぐに登山口になっていた。
「かなり急な道ですから、病気持ちの方は登山をご遠慮ください」と書かれている。
パンフレットには頂上までの高さが105メートルとあったが、木々の間から見える岩は見上げるように高かった。
 登り始めるとすぐに二つの道に分かれていた。一つは遠回りにはなるが傾斜の緩やかな坂で、もう一つは急な階段を上っていくようになっていた。狩野は急な階段の方を選んだ。階段を登っていくのはつらかったが、登るとすぐに頭上に大きな平たい岩が天井のようにのっかっているのが見えた。その岩は両側の岩で支えられていて、まるで何かの入り口のように見える。そこに『ハンギング・ロック』と名札がついていたので、「ああ、これがハンギング・ロック、地名の由来になった吊られた岩なのね」と狩野は納得した。ハンギング・ロックをくぐって出たところは、緩やかな坂道と合流地点になっており、そこからは、ゆるやかな坂道になった。それまでの石段とは違って、砂道を丸太で滑り止めをしているような階段が頂上まで続いていた。両側には岩が突き出ていて、麓は見えなかった。岩のところどころに穴が空いていて、そこから麓の景色が額縁の絵のように見えた。頂上に辿り着くと360度の景色が開けて見えた。大きな山が一つ見える以外は平原で、限りなく緑の潅木が広がっている雄大な風景だった。景色を楽しむには風がビュービュー吹きつけ、長くは立っていられなかった。小雨が降り始めたので、狩野は慌てて岩陰に身を寄せたが、狩野の後にも先にも人が上ってくる形跡がなく、突然一人でハンギング・ロックの頂上に立っているのに気が付くと、心細くなってきた。雨脚は段々激しくなり、遠くで雷がとどろく音がした。昼間なのに薄暗くなり、不気味さが漂い始めた。後藤がこんな所で一晩過ごすとは思えなかった。やっぱり、何らかの理由で殺されて、死体は別の場所に隠されたのだろうと思うと、ぶるぶる体が震えてきた。20分も岩陰にいただろうか。雨が段々弱くなり、少しずつ明るくなってきた。それから10分も立つと、雨が上がった。狩野は、雨がやむとすぐに坂を下り始めた。下りは砂道が雨に濡れて泥道になっていて、すべり転げないようにすることに神経を集中させなければいけなかった。降りたところでまたカフェに戻った。カフェには2,3人客がいた。
 朝話したカフェの女、ジェーンは狩野を見ると、「何か分かりましたか?」と声をかけてきた。
「いいえ」
「それは、残念でしたね。早く、その方、みつかればいいですね」
ジェーンは気の毒そうに言った。
 お昼ごはんにミートパイと紅茶を注文したが、せっかく遠くまで来たのに、そのまま帰るのは惜しいように思われた。カフェにおいてあるパンフレットを手にとって見ると、山の麓を30分で一回りできると書かれていた。カフェを出た後は、山の麓を一回りすることにした。麓は人が通れるように小道があったが、小道の回りは潅木で、枯れた大木が道の脇に転がっていた。何か黒っぽいものが道の脇から出ていた。よく見るとハリネズミだった。ハリネズミは、狩野を恐れる風もなく、ゆうゆうと狩野の前を横切って行った。歩きながら、こんな草原にでも死体が埋められたら、分からないだろうなと想像した。ゆっくり歩いたが、パンフレットに書いてあった通り、駐車場に戻るには30分もかからなかった。
結局、狩野は何の収穫もなく、ハンギング・ロックを後にした。

著作権所有者:久保田満里子

 

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