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ヒーラー(18)

母親との話が一段落したところでミョンヒはまっすぐ私の目を見て言った。
「私が一緒に行動してあげればいいのですが、兄は私の行動も監視しているでしょうから、一緒に行動をすることは賢明ではないと思います」
「え、じゃあ、私一人で逃げろって言うの?私、韓国語が話せないから、すぐに韓国人じゃないってばれてしまうわ」
私は一人にされる恐怖ですくみあがった。
「勿論、あなたが一人で行動するのは危険です。母に相談したら、日本から拉致されてきた女性がいて、その女性と一緒に生活して日本語を習った女性がいるので、その人につきそってもったらどうかと言っています」
「その人は、つまりはスパイとしてトレーニングされた人ですか?」
ためらいがちに聞くと、ミョンヒは苦笑いをして、
「まあ、そういうことになりますね。ともかく、ここでは何もできません。腹ごしらえをしたら、でかけましょう」と言った。
私は、どうにか北朝鮮を脱出できそうだという望みが湧くと、とたんに空腹を覚え、目の前に出された料理をぱくついた。韓国料理は辛いと思っていたが、このホテルでは外国人の観光客が多いせいか、辛さもほどほどでキムチも食べやすく、おいしかった。おなかがいっぱいになったところで、ミョンヒの後について、レストランを出た。レストランの前で、ミョンヒの母親と別れ、私はまたミョンヒの車に乗り込んだ。
「どこにいくの?」助手席に座ってシートベルトをしめると、私はミョンヒに聞いた。
「あなたのエスコートをしてくれそうな女性の家」
「エスコートをしてくれそうということは、その人が確実に私のエスコートをしてくれるっていう保証はないのね?」
「ええ。だから、どうやって彼女を説得できるか、考えなくちゃ」
私は誰かがエスコートをしてくれると信じていたので、とたんに不安に陥った。
ホテルから車が出ると、私は後ろを何度も振り向いてみた。キムの仲間につけられているのではないかと不安で仕方なかったからだ。ミョンヒが車を停めたのは、普通の家の前だった。車がほとんど通らない通りなので、ミョンヒの車は目立った。
「こんな所で、車を駐車したら、すぐに私たちの居所が分かっちゃうんじゃないの?」
ミョンヒは、「大丈夫」と言うと、さっさと先に歩き始めた。その家のドアを叩くと、髪を後ろで束ねた50歳くらいの鼻ペチャの浅黒い顔をした女がドアを開けた。ミョンヒがなにやら言うと、その女は二人を中に入れてくれた。中はすぐに廊下になっていて薄暗かった。その女の案内でその廊下を歩いていくと、突き当たりに裏のドアがあり、それを開けてでると、裏庭があった。庭と言っても、野菜が植えられていて、畑のような庭であった。その庭に、物置小屋のようなものがあったが、その女は、その中に入って行った。ミョンヒに続いて私も中に入ってみたが、物置小屋には、鋤や鍬など、畑仕事に必要な道具があった。案内人の女は、床に膝をつけてかがみこむと、板敷きの板の一枚をはがし始めた。板は簡単にはずれ、取り除くとその下は穴になっていた。穴の中は暗かった。女は手に懐中電灯を持っており、それで穴を照らすと、階段がついているのがかすかにみえた。女が階段を降りるのに続いて、ミョンヒが続き、ミョンヒの後から、私は恐る恐る階段を下りて行った。階段は深く、階段の下はトンネルになっており、人がかがみこんで歩けるくらいの大きさだった。そのトンネルは5メートルくらいしかなく、トンネルの先にはドアが見えた。女がドアを開け、電気をつけると、そこは別世界のような豪華な部屋になっていた。明るい電灯に照らされたその部屋には、豪華なベッドとソファーがあり、浴室やトイレ、台所まであった。
「ここはどこ?」私は沈黙を破って聞いた。
案内人の女は私が韓国語を話さなかったので、驚いた顔をして私の顔を見た。
ミョンヒは、案内人の女に何か韓国語で言うと、女は一瞬顔をしかめたが、そのまま元来た階段を登って、我々の目の前から消えてしまった。
「ここは核戦争が起こったときを想定して作られた避難所なの。ここで、母の送ってくれる女性を待ちましょ」
私は北朝鮮が盛んに核兵器の開発を行っていることを思い出し、身震いした。これから、どうなるのかと思うと、暗澹たる思いだった。

著作権所有者:久保田満里子

 

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ヒーラー(17)


しばらく考えていたミョンヒは、やおら携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。電話の相手はすぐにでたが、ミョンヒが誰と話しているのか韓国語がさっぱり分からない私に知る由もなかった。
話しているうちに、ミョンヒの顔が明るくなったので、何か良い方法がみつかったようだ。電話を切ると、ミョンヒは車をUターンさせて、街に戻り始めた。
「何か、いい方法が見つかったの?」
「今から羊角島ホテルに行くわ」
「え?あのピラミッドみたいなホテル?」
ミョンヒはクスリと笑った。
「残念ながら、柳京ホテルはまだ完成していないのよ。今から行くホテルは、ちょっと街中からはずれた大同江の中洲にあるホテル」
ミョンヒはそれ以上のことを言わなかった。
ミョンヒがどんな対策を練り出したのか分からないが、これからの自分の行く末が不安であった。それにオーストラリアでジョンは無事にいるだろうか。それも心配だった。キムがどうして自分を殺そうとしたのかも理解できなかった。もう私にチュンサンを治せないと見切りをつけたからであろうか?そうとしか考えられなかった。そんなことを思い巡らしているとミョンヒの車はホテルの前に着いた。ドアマンがすぐに寄ってきた。ミョンヒは車から降りると、ドアマンに車のキーを渡した。ドアマンが車をホテルの駐車場に持って入ってくれるのだろう。私は周りを見て、怪しい人影が見えないことを確かめた上で、恐る恐る車を降りた。ミョンヒはすぐに私の腕を取って、物怖じする様子もなくホテルの中に入って行った。そしてエレベータに乗ると48階のボタンを押した。最上階のようだった。そこに着くまでにたいして時間はかからなかった。エレベーターを降りると、レストランになっていた。ミョンヒは迷うことなく、レストランの入り口に立った。すると、ウエイトレスがすぐに出てきて、何か聞いた。多分二人かどうか聞いたのだろう。ミョンヒが指を三本出して何か言ったが、多分これは三人だといっているのだろうと、想像できた。後一人って誰だろう?ウエイトレスが案内してくれた窓際の席の窓から外の景色が見えた。このホテルは川の中州に建っているようで、すぐ下には川が見え、街の高層ビルは遠くに見えた。席に着き、ウエイトレスの姿が見えなくなったところで私は聞いた。
「誰かと待ち合わせているの?」
「ええ」ミョンヒはにっこりして答えた。
「誰?」
私が聞くと同時に、一目で上流階級の奥さんだと思われる初老の女性がウエイトレスに案内されて、私たちのテーブルに来た。ミョンヒは椅子から立ち上がるとその夫人のそばにたち、「母の、オギです」と紹介した。その夫人に向かっては韓国語で何か言ったが、洋子と言う言葉が聞こえてきたので、私のことを言っているのだと分かった。オギはミョンヒとよく似た美人だった。勿論少し顔にしわがあるが、落ち着いた上品な雰囲気を漂わせていた。
三人がテーブルに腰をかけると、オギが私になにやら言って、頭を下げた。ミョンヒが通訳してくれた。
「母は私が洋子さんに病気を治してもらったことを知っているので、そのお礼をいっているんです。母はチュンサンの腹違いの妹になるんです。だから母に頼ったら母がどうにかしてくれると思って来てもらったんです」
「へえ。オギさんがチュンサンの妹なの。それじゃあ、ミョンヒさんは、チュンサンの姪に当たるの?」私は驚きの声をあげた。
「そうなんです。母には電話で兄から洋子さんは狙われていることを話しました」
「で、オギさんは、私はどうしたらいいと思われているんですか?」
「何とか国外に逃してあげたいと言っています」
「え?オーストラリアに返してもらえるんじゃないの?」私はオーストラリアに戻ることしか考えていなかったので、ミョンヒの言葉に落胆した。
「すみません。ちょっとオーストラリアまでは無理ですが、せめて中国か韓国には行かせて上げられるのではないかと言っています。中国か韓国でオーストラリア大使館に逃げ込めば、後はオーストラリアに帰る事ができると思います」
オーストラリア大使館と言われて、私ははたと困ってしまった。私の困った顔を見て、ミョンヒが聞いた。
「何か問題があるのですか?」
「ええ。実は私はまだオーストラリアの市民権をとっていないんです」
「ということは、日本国籍ですか?」
「そうなんです。日本政府は二重国籍を認めていませんから、オーストラリア国籍を取得すれば日本国籍は捨てなければいけないので、踏ん切りがつかなかったんです。それにオーストラリア国籍がなくても永住権があれば、選挙権がないだけで、他の点では何の差別もされないし」
「そうですか?それなら日本大使館に逃げ込めばいいですよ」
何もそんなに悩むことはないではないかと言う顔で、ミョンヒは言った。
「空港や港は、もう兄の手が伸びていると思います。だから、まず変装をして、あなたが洋子であることを見抜かれないようにする必要があります」
私にそういった後、ミョンヒは母親としばらく深刻な顔をして韓国語でひそひそ話をした。私はその間黙ってテーブルの向かい側に座っている二人の様子をうかがっていた。そうするちにキムの手下に見つからないかと不安でときおりきょろきょろあたりを見回したが、レストランには中国語で大声で話している観光客のグループしかいなかった。

著作権所有者:久保田満里子
 

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ヒーラー(16)

私の頭がだんだん回転し始め、状況を理解したときには、キムの姿が見えなくなっていた。韓国ドラマの時代劇で、よく毒薬を飲ませる場面を見たが、このテーブルの上にのっている食べ物に毒薬がしかけられていたのではないか。そう思うと、ぞっとして、ミョンヒの顔を見た。

「洋子さん。ここにいては危ないわ。私についてきて!」と言うと、ミョンヒは私の腕を引っ張って部屋を出るとどんどん廊下を走り始めた。私はその時初めて身の危険を感じて、必死になってミョンヒの後を追って走った。廊下は途中でいくつにも分かれていたが、ミョンヒはどこに何があるのか分かっているらしく、一度も迷うことなく走った。必死になってミョンヒの後を追っていた私の心臓がドキドキしてきた。鼓動の音が段々高くなる。それにつれて息が苦しくなる。ミョンヒはあんな華奢な体でどこからエネルギーがでるのかと思われるほど、疲れを見せる様子もなく走る。ミョンヒが私の腕を放すと、段々ミョンヒとの距離が開いてくる。このまま後1分でも走れば、もう心臓がはち切れそうだと思ったとき、ミョンヒがドアを開け外に出た。彼女に続いて出ると、そこには赤いフォルクスワーゲンが停まっていた。その車の運転席に飛び乗ると、ミョンヒは助手席側のドアを開けた。私が助手席に転がり込むと同時に、ミョンヒは車を発車させた。私はハアハアと荒息をして、呼吸を整えるのに時間がかかった。車は舗装していない山道を走っているためか、揺れがひどい。体が宙に投げ出されそうになるのを、かろうじてシートベルトがとめていた。やっと、息が正常に戻ったが、でこぼこ道で車が揺れるので、気分が悪くなってきた。蒼い顔で、両手を拳にして、固く握り締めた。ほとんど何も食べていなかったので、吐き気が来なかっただけましだと思うべきかも知れないが、頭痛がし始めた。林の中の道は細く曲がりくねっていた。後ろから追ってくる車がいないか、振り返ってみたが、ミョンヒの車の出す砂埃で、後ろが見えない。運転しているミョンヒの横顔を見ると真剣そのもので、彼女の必死の形相を見ていると、話しかけるのがためらわれた。これからどこに行くのだろう?ミョンヒはどこを目指しているのだろう?そう思っているうちに車は舗装のしてある道に入り、車の揺れがおさまった。まっすぐな道路は閑散としていて対向車も見えない。追ってくる車がないか後ろを振り返って見た。追ってくる車はなかった。初めてほっとしてミョンヒに話しかけた。

「後ろから追ってくる車はないわ」

「よかったですねって、言いたいけれど、洋子さんは兄の力を知らないから、安心できるのよ」

「どういうこと?」

「兄は政府の諜報機関の幹部なのよ。つまり彼の一言で動く人間がたくさんいるってこと」

「それじゃあ、私はどうやればオーストラリアに帰れるの?」

「私も今どうすれば、洋子さんを無事にオーストラリアに送り返すことができるか、考えているところなのよ」

話しているうちに車は街中に入り、まるで巨大な矢じりのような三角形のビルが見えた。

「あれは、なに?」

「ああ、あれは柳京ホテル。まだ完成していないけれど完成すれば105階のホテルになるはずよ」

「へえ。あんなに大きなホテルが北朝鮮にあるなんて思っても見なかったわ」

ミョンヒは力なく笑った。

「私たちの国がそんなに低開発国だと思っていたの?」

ミョンヒの愛国心を傷つけたことに気づいて、私はあわてて謝った。

「ごめんなさい。でも、北朝鮮って、色んな新聞やテレビのニュースで見る限り、これといった資源も工業もない国だと思っていたわ」

「確かに、国費の3分の1は軍事費に使われていて、国民のほとんどは農民なんだけど、最近飢饉に見舞われて、食料も乏しいの。でも、一番困っているのはエネルギー不足ね。ガソリンも足りないからバスや電車はあっても、走らせられないのよ」

「そんなにもエネルギーに困っているの?ああ、わかった!」

私が突然大きな声を出したので、ミョンヒはびっくりしたようだ。

「え?何が?」

「高麗航空に乗ったとき、暖房が全然きいていなかったし、空港のビルも寒かったわ。エネルギーがないから暖房も思うようにできないのね」

ミョンヒはため息をついた。

「そうなんです」

街中に入っても、ほとんど車もいないし、信号機もない。ただたくさんの人が歩いており、ミョンヒの車は、他の車にぶつかる心配よりも、人間を轢く心配をしなければいけなかった。

車は街を通り抜けると、高級住宅街と思われる大きな屋敷が立ち並ぶ通りに入った。しかし、その通りに入ったとたん、ミョンヒは突然車を停めた。

「どうしたの?」いぶかる私にミョンヒは唇をかみ締めていった。

「兄の手下が、うちの門を見張っているわ。あそこを、見て!」ミョンヒが指差す方向に目を向けると、不気味な感じの男が二人、豪邸の門の前に立っていた。

「あそこは、どこ?どうしてお兄さんは、あなたがあそこに行くと知っていたの?」

「あそこは私のうちなの。兄が先に手を回したのね。これじゃあ、あなたを連れてうちに行くわけにはいかなくなったわ」

私はまっさおになった。

「じゃあ、私はどうすれば、いいの?」

こんな所で一人放り出されたら、すぐにキムの手下に捕まってあの世行きなのは目に見えている。

著作権所有者:久保田満里子

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ヒーラー(15)

「それじゃあ、またおじのために祈ってくれ」とキムは言い、またキム・チュンサンの部屋に連れて行かれた。昨日までの丁重だったキムの態度がぞんざいになったのに気が付いた。きのうを治せなかった私に腹を立てているのだろう。

私は、その前の晩のように、悩まなかった。キム・チュンサンが助かるか助からないかは神のご意思によるのだ。そう自分に言い聞かせた。実際には全ての責任を神に押し付けることによって、私は心の安らぎを得たに過ぎない。そうすると、祈りに集中することができた。今までたくさんの人の病気快癒のために祈った時と同じように、一心不乱に祈った。何時間経ったのか時間の感覚は全くなくなったが、背後でキムの声がして、我に返った。

「だめなようだな」落胆を隠し切れない声だった。

チュンサンを見ると、祈る前と変わっていなかった。目をつぶったまま高いびきをかいていた。神は、やはりこの男が生き延びることを望んでおられなかったと思うと、心の奥底でほっとしたが、私も落胆を装って言った。

「そうですね。私の力ではどうしようもなさそうです」と言った。

「一休憩してくれ」とキムは言った。

「食事を出すから、ついて来い」と言われ、私は黙ってキムの後からついて行った。私の後ろからは彼の部下がぴったりついてきた。私が変な気を起こして、逃げ出したり、キムに襲い掛かるのを用心したのかもしれない。建物の出口の近くまで来ると、エレベーターがあった。そのエレベータの横の壁についている番号のついている盤に、キムは何やら番号を入れたようだ。彼の大きな背中に隠されて、暗証番号は、分からなかった。エレベーターの扉が開くと、キムが先に乗り、続いて私、そして部下の三人がエレベーターに乗った。エレベーターは下に下りはじめた。10分も乗っていただろうか。エレベーターの中では誰も話すことはいなかった。エレベーターが開いたところは、大きな廊下になっていた。まるで都会の地下鉄の駅の広場のように広い廊下だった。そこを100メートルくらい歩いていくと、その突き当りにはまたエレベーターがあった。そこでも何やら暗証番号のようなものを入れるとそのエレベーターも扉があき、三人が乗ると今度は上昇し始めた。またその扉が開いたところは、大きな食堂のような部屋になっていた。テーブルには様々な料理が載っていた。

「食べてくれ」

そう言われて、テーブルにつき、おいしそうな匂いを漂わせる鴨の肉に手を伸ばしたところ、

「洋子さん。お久しぶりです」と言う女の声が背後でした。声の主を見ると、キム・ミョンヒだった。こんな所でミョンヒに会うとは思っていなかったので、私はびっくりしたが、よく考えると、ミョンヒはキムの妹なので、驚くべきことではなかったのかもしれない。

「ミョンヒさん!」

一瞬驚きの声をあげたが、その後は私は憤りの感情に襲われた。

「ひどいじゃありませんか!」

私の剣だった声に、ミョンヒの顔から笑顔が消えた。

「すみません。兄がこんなことをするとは思っていなかったのです」

ミョンヒは本当にすまなそうに私にわびた後、キムに向かって

「お兄さん。洋子さんは私の命の恩人よ。それなのに、無理やりここに連れてきて、洋子さんをどうしようと言うの」と、キムにとがめるように言った。

「いや、おじさんの命を助けたい一心で、お前を治したという洋子さんにきて貰ったんだよ」

それを聞くと、ミョンヒの顔に皮肉な笑いが浮かんだ。

「おじさんの命を助けたいというよりは、おじさんの命を助けて恩を売って、出世したいというのが、兄さんのねらいじゃないの?」

本当のことをつかれたためか、キムは顔をまっかにして怒り始めた。

「何を言っているんだ。お前はおじさんが助からなくてもいいと思っているのか?」

「そんなことは言っていないわ。私だっておじさんに長生きして頂きたいわ」

ちょっと言い過ぎたと反省したのか、とりつくろうように言った。

「もうお客様の前でけんかするのはよしましょうよ。せっかく洋子さんに来ていただいたのなら、おじ様の病気快癒を洋子さんに祈って頂きましょ」と言うと、私の方に向き直って

「すみません。洋子さんの前でつまらないこと口走ってしまって」と言ってわびた。

そして

「それでは、私もお食事を一緒にさせてもらおうかしら。いいですか?」と、私の返事を待たずに、私の隣に腰掛けた。

それを見ると、キムが血相を変えて、

「それは、お客様に食べてもらうために用意したものだ。一緒に食べるなんて失礼じゃないか」とミョンヒを怒鳴りつけた。

ミョンヒはキムの剣幕に唖然とした様子で

「何も、そんなに怒らなくてもいいじゃない。洋子さんだって、こんなにたくさんの食べ物を一人では食べきれないでしょ?」

キムの言葉を無視して箸を持ったミョンヒの手を、キムはものすごい勢いで払った。箸が部屋の片隅まで飛び、ミョンヒも私も驚きで目をみはった。するとたちまちミョンヒの顔から血の気が引いていき、

「まさか!」と言って、キムを見た。そしてキムのこわばった顔を見ると、次の瞬間、私に

「洋子さん。その肉食べちゃだめ!」と大声で言った。

私は何がどうなっているのか分からず、目を白黒させるだけだった。

著作権所有者:久保田満里子

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ヒーラー(14)

その顔は北朝鮮の独裁者、キム・チュンサンの顔だったのだ。いつもテレビのニュースなどで見るキム・チュンサンは丸顔でメガネをかけていたが、私の目の前のキム・チュンサンは頬もこけ、重病人の様相を呈していた。目を閉じているため、起きているのか、寝ているのか分からなかった。しかし、病人がキム・チュンサンだと分かった今、私は自分の置かれた状況をはっきりと理解した。キム・チュンサンが死ねば、私も殺されるだろう。それに、私の祈りで治ったとしても、生きて帰れるかどうか分からない。

私は黙ったままキムを見ると、キムは私の言いたいことを理解したかのように

「そうです。おじのキム・チュンサンです」と静かな声で言った。

「おじさん。有能な祈祷師を連れてきましたよ」と耳に口を近づけて言った。総書記長は目を閉じたまま微動もしなかった。ただ異常に大きないびきをかいていた。

キムは私に向かって、「この椅子に腰掛けてください」と木の枠でできた花の模様の刺繍がたくさん入っている重々しい感じの椅子を私に勧めた。私は椅子に腰をかけ、キムに向かって

「二人だけにしてくれませんか?人が側にいると気が散ってしまうんです」と言うと、思いがけずあっさりと、

「そうですか。それでは、僕はまた1時間後に戻ってきます。よろしくお願いしますよ」と答えが、キムは音も立てずに部屋を出て行った。

私は一人でキム・チュンサンの顔を眺め、うわさで聞いていた、この北朝鮮の独裁者の残酷さを思い出した。民衆が飢饉で飢えに苦しんでいるのを尻目に、兵器を買い求め、自分の権力を増長させることしか考えない男。彼に反対する者は拷問にかけて殺すという恐怖政治。麻薬の密輸や偽金作りで国費を得ようとするやくざまがいの行為。北朝鮮の周囲の国々が話し合いをしようとなだめすかして、やっと話し合いの場に参加させても、自分の旗行きが悪くなるとすぐに参加拒否をする身勝手な男。日本や韓国で多くの人間を拉致して知らぬ存ぜぬで貫きそうとする男。この男のために、どんなに多くの人が苦しめられているのか。そう思うと、こんな男は死んだほうがいいのだと、ムクムクと憎悪の塊が私の胸の中で膨らんでいき、喉がつかえた。しかし、この男の病気を治せなかったとき、はたしてキムは私を無事にオーストラリアに返してくれるだろうか?ジョンは無事だろうか。憎しみと恐怖が波のうねりのように交互に私の心を押しつぶした。私は美佐の夫のマイクのことを思い出した。マイクは殺したくもない人間を殺す羽目になり、生涯その罪悪感にさいなまされていたのだが、私は救いたくない人間を救わなくてはいけない状況に立たされてしまった。全く逆の立場である。イエス・キリストは自分を苦しめた人間を許したが、私はキム・チュンサンに直接的な被害はこうむらなかったものの、彼の犠牲になった多くの人々のことを考えると、そうそうたやすくこの男を救うために祈る気にはならなかった。私はどうすべきなのだろう?キム・チュンサンの無防備な顔を見ながら、心が乱れた。心の葛藤はどのくらい続いたのか分からない。結論を出すまで10分はかかっただろう。ともかく祈るだけは祈ってみよう。もしも彼が快癒しないようであれば、それは神の思し召しとみなすべきだろう。自分の役割は、彼の快癒を祈るのみ。そう思い定めると気が楽になり、両手を頭にそっと当て、目を閉じて、心の中で、「病気が治りますように」と繰り返し言った。暖房は効いているが暑くもない部屋なのに、額から汗が噴き出た。手はいつものように電流が流れるようにびりびりする。その部屋の中では時間の流れが止まっているようだった。のゴーッと言ういびきだけが聞こえる。

永遠に祈り続けているような、そんな感覚になっていたとき、急に肩をこづかれて、はっとなって振り向くと、キムが厳しい顔をして立っていた。

「おじは、まだ目覚めませんね」

私を非難するような口調だった。確かにチュンサンの病状には何の変化もみられなかった。

「できるだけ、やってみたのですが」私は弱弱しく答えた。

「一休憩して、またお願いしますよ」

そういわれて、突然疲れがたまった澱のように私を襲った。オーストラリアから北京に行くまでの飛行機の中でうつらうつらしたものの、拉致されてからほとんど寝ていない。はりつめた琴線が切れるように今までの緊張が一気に取れると、頭がボーっとなってきた。

キムに連れて行かれた部屋にはベッドがあった。私はキムが部屋を出て行くやいなやベッドに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。何時間寝たのか分からない。時計がないので、時間の感覚がすっかりなくなってしまった。窓からもれる光で目が覚めた。すると、その前の晩に見たやつれたキム・チュンサンの顔が目に浮かんだ。そうだ。自分はあの男を助けるために拉致されたのだ。あの男を助けられなかった時のことを想像すると、背中がぞくっとした。

私が起き上がって、これからどうすればいいのだろうと思い悩んでいると、部屋のドアが開き、朝食を持ったキムの部下が入ってきた。まるで、その部屋には監視カメラが取りつけられているかのように、絶妙のタイミングだった。実際、監視カメラが取り付けられていたのかもしれない。キムの部下はベッドのそばのテーブルの上に、朝食を載せた盆を置くと、「食べてください」と韓国語訛りの感じられない英語で言った。私は、その男が部屋を出て行くと、飢えた動物のように、すぐにパンをぱくつき、ハムエッグを口に頬張った。果物を食べ、オレンジジュースを飲み、紅茶も全部飲んだ。盆に載っていた朝食を全部きれいに平らげると、一息ついた。ベッドから出ると、着替えようにも着替えの服がないことに気づいた。自分の体をかいでみると、臭い。もう3日もシャワーを浴びていないのだから、無理もない。そう思っていると、ドアが開き、今さっき朝食を運んでくれた男が、「お風呂にご案内します」と言ってくれた。余計な口はきかないように言われているのか、その男は黙って私の前を歩いていき、風呂場に案内してくれた。まるでホテルの風呂場のように、真っ白の洋式の浴槽があり、その浴槽にはすでに水がはってあった。ここにも監視カメラが取り付けられているかもしれないなと思ったが、思い切って着ている服を脱ぎ、浴槽に足をつけると、浴槽の湯は熱くもなく冷たくもない適温だった。体を湯船につけると、気持ちよく、また眠気が襲ってきそうだった。浴槽を出ると、白いバスタオルと新しい衣服が用意されていて、それを身につけると、生き返った心地がした。浴室を出ると、キムが待ち構えていた。

著作権所有者:久保田満里子

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