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娘の恋人(最終回)

フィオーナがシドニーに帰ってから二日後、結婚招待状を受け取ったが、私の気持ちは、困惑するばかりだった。結婚式に参列しないとフィオーナと永遠に決別するようになると思う一方、参列すると、二人の関係を認めたことになるというのも抵抗があった。フィオーナは一人っ子だ。フィオーナが結婚すれば、息子ももてるし、孫も見られると思っていたので、息子も、孫も諦めなければいけないと思うと、ひどく気落ちした。結婚式に出ようか、出まいかと思い悩んでいるうちに、結婚式まで一週間に迫っていた。その間、フィオーナから何も音沙汰がなかった。ジョージが、「結婚式には出よう」と決断を下したので、私もジョージの決断に従った。

結婚式は、雲ひとつなく晴天に恵まれて、シドニーバーバーブリッジの見える公園で行われた。ロビンは黒のパンタロンのスーツ姿で、フィオーナはベージュ色のロングドレスを着ていた。結婚式には百名以上も参列者がいて、二人を祝福する人の多さに、私は圧倒された。ロビンの両親は、二人の結婚には全面的に賛成のようで、「いやあ、フィオーナのような素晴らしい女性と結婚できて、本当に良かった」と、嬉しさを隠し切れないように言った。ロビンとフィオーナの友達には、ゲイの人も多かった。私は、結婚式の間ずっと、むっつりしていた。二人がキスを交わすときなどは、思わず顔をそむけてしまった。結局、二人には「おめでとう」の一言も言わずに、メルボルンに戻った。

それから、私とフィオーナは今まで以上に疎遠になってしまい、私は傷心の日々を送っていた。結局、その年は、フィオーナはクリスマスにもうちには戻ってこなかった。

二人の結婚から1年経ったころ、フィオーナから手紙が届いた。何事かと不安な気持ちで焦って封筒をビリビリに裂いてしまった私の手元から、パラッと紙が落ちた。拾ってみると、赤ん坊を抱いたフィオーナと、ロビンの三人が写っている写真だった。

「まあ、赤ちゃんができたの!」

驚きで、嬉しいのか嬉しくないのか、自分の気持ちが分からなかった。

赤ん坊は、黒い髪の毛で、くしゃくしゃの顔をしている。何となく、フィオーナが生まれた時を思い出させた。

「一体、誰の子なのかしら?」と、思った。

写真と一緒に来た手紙を読んで、私は複雑な気持ちになった。

「パパ、ママ

元気?

先週子供ができたので、お知らせします。

多分二人とも、誰の子かと思うだろうと思うので、子供のことを、誤解のないように説明しておきます。子供は私が産みました。でも、ロビンの卵子を使い、ゲイの男友達から精子を提供してもらいました。つまり、三人で協力してできた子です。ゲイの男友達は、医者で頭もよく、ハンサムな人なので、きっとハンサムで、頭の良い子になってくれるでしょう。この子には、パパとママの血は混じっていないので、二人にとっては、複雑な気持ちかもしれませんが、私がおなかを痛めて産んだ子です。とっても可愛いです。見に来てくれると、嬉しいです」

ジョージにもこの手紙と写真を見せると、しばらく黙っていた。そしておもむろに言った。

「一度、フィオーナの産んだ子に、会いに行こうか?」

私は、思わず頷いた。フィオーナの産んだ子がどんな子か、好奇心をもったのだ。

次の週、フィオーナの家に行って、赤ん坊に初めて対面した。

最初は、フィオーナに抱かれた赤ん坊を見ていただけだったけれど、抱いてみたくなった。フィオーナが渡してくれた赤ん坊は、暖かく柔らかで、今にも壊れそうな感じだった。小さな手足。小さな顔。抱いているうちに、いとおしさが湧き出ていた。自分でも不思議だった。自分の血が入っていない赤ん坊なのに、可愛さで一杯になり、思わず頬ずりした。フィオーナが生まれてきた時のことが思い出された。フィオーナは私のそんな様子を見て、初めてニッコリ笑った。フィオーと私の心につもっていたわだかまりを、小さな赤ん坊が段々溶かしていってくれそうに思え、私もフィオーナに向かって微笑み返した。何年振りかで交わす笑顔だった。

著作権所有者:久保田満里子

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娘の恋人(2)

「こ、こんにちは、ロビン」と、どもりがちに言う私を尻目に、娘はさっさと家の中に入ってきた、ロビンも「こんにちは」とにっこりして、娘に続いて家の中に入ってきた。日ごろ人間平等主義を謳っている私だが、娘の相手は、男だとばかり信じていたので、娘がレスビアンだったことは、青天の霹靂であった。言葉を失っている私に対して、ジョージのほうが、冷静だった。

「やあ、ロビン。フィオーナの父親のジョージだ。よく来たね」と、握手までしている。

私も最初の衝撃がおさまったところで、社交辞令が言えたのは、私にしては、あっぱれであったと思う。

「疲れたでしょう。お茶かコーヒー、入れましょうか?」と、言うと、

「ロビンも私も、あんまりお茶もコーヒーも飲まないのよ。お水くれる?」と、フィオーナが言った。

幸い冷たい水が冷蔵庫にあったので、それを出した。私は、ロビンが、どんな女性なのか、気に掛かったので、すぐに質問した。

「ロビンさんは、何をしていらっしゃるの?」

「XX大学で女性学を教えています」と、ロビンはすぐに答えた。

「まあ、大学の先生なんですか」と、言うと、フィオーナがすかさず横から口を出した。

「ロビンとはね、ゲイの権利のデモであったのよ」

「ゲイの権利?」

「そうよ。ゲイのカップルに結婚を認めないなんて、おかしいわ」と、フィオーナが言う。私は、ゲイの結婚の議論は聞いたことがあるが、それに関しては一家言持っていたので、思わず強い口調で言った。

「ママは、結婚は男と女のカップルだけに認められるのは当然だと思うわ。だって男女のカップルには子供ができるけど、ゲイのカップルには子供はできないんだから、全く違うわよ」

「違わないわよ。愛した相手がたまたま同性だったからって、不利になるような法律は変えるべきだわ」と、フィオーナも負けずに強い口調で言い返した。これは、大変なことになったと思ったのか、ジョージが横から仲裁に入った。

「まあまあ、それくらいでいいだろう。二人とも、せっかくロビンさんに来てもらったのに、ロビンさんに不愉快な思いをさせては、気の毒だろ」

ロビンはそれほど気を悪くしたふうはなく、

「まあ、お母さんのような考え方の人がかなりいますよね」と、冷静な声で言った。

それから、フィオーナの好きなお好み焼きやギョーザなど、準備していた料理で、食卓を囲んだが、気まずい雰囲気は、そのまま漂っていた。食事も終わりに近くなった頃、フィオーナが思い切ったように言った。

「私達、今度結婚することにしたの」

私は、私に相談もなく、結婚を決めたフィオーナに対して、何だか裏切られたような気持ちがした。だから、胸がつまって、すぐに言葉が出てこなかったが、ジョージは、平然とした声で聞いた。

「でも、法的にはまだ認められていないだろ」

「そうなんだけど、法律ができるまで、もう、待てないわ」

「来月の15日にシドニーで結婚式を挙げることにしたので、是非来てください」と、ロビンが付け加えた。

それには、さすがのジョージも、すぐに結婚式に出席するとは言いかねたようで、沈黙が流れた。フィオーナは、食事が終わると、

「じゃあ、私達、シドニーに帰るわ。結婚式の招待状は、あとで送るから」と、言って、さっさと帰ってしまった。一晩泊まるとばかり思っていた私達はあっけにとられたが、フィオーナは、このままお互いに気まずい思いで一泊するのは気が重くなって、予定を変更したらしい。

著作権所有者:久保田満里子

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娘の恋人(1)

久しぶりに電話をかけてきた一人娘のフィオーナが、「今度恋人を連れていくからね」と、言ってきたときには、びっくり仰天。大学を卒業して、シドニーに就職。フィオーナは家にはたまにしか帰ってこない。たまに帰ってきたときに話すのは、仕事のことばかり。キャリアウーマンの娘に恋人がいるなんて、全く気がつかなかったのは、母親としてうかつだった。

「ジョージ、フィオーナが恋人を連れてくるって言っているわ。どうしよう。へんな子を連れてきたら困るわ」とおたおたする私に比べて夫のジョージは、おっとりと構えている。

「まあ、顔に目が二つ、鼻が一つに、口一つついていれば、言うことないじゃないか」

「何人かしら?日本人、それともオーストラリア人?それとも日本人以外のアジア人、それともオーストラリア人以外の白人?それとも黒人?アボリジニ?」と、私の頭は疑問符でいっぱいになる。

「仕事は、何かしら?サラリーマンならいいけれど、生活力のないアーティストだと困るわ」と、つまらないことを考えてしまう。

私が色々気をもんでいるのを見て、ジョージは

「そんなに心配なら、電話してきいてみればいいじゃないか」と言う。確かにそうなのだが、仕事で忙しくしている娘は、私が時折電話しても、「何の用事?」と、つっけんどんで取り付く島がない。だから電話するのは気後れする。フィオーナが帰ってくると言ったのは、3日後の日曜日。3日たてば、全て分かる。それまでの我慢だと、自分に言い聞かせる。友人の久恵なんか、娘が一日に一回、多い時は2回電話してくると嬉しそうに言っていたが、我娘ときたら、コミュニケーション能力ゼロだ。

ジョージに、

「ねえ、ベッドルームは別々に用意したほうがいいかしら?」と聞くと、

「いまどき、30にもなろうという娘を恋人と別々に寝させる野暮な親がいるか」と、呆れ顔。

父親は娘の恋人に嫉妬すると聞いたことがあるが、ジョージには、そんな気配は全く感じられない。

その3日後、私は客室のベッドルームに新しく購入したシーツや布団かけ、枕カバーなどが、きちんとおさまっているかどうか確かめ、まるで自分の結婚相手にでも会うようなそわそわした気持ちで娘の帰宅をまった。

玄関のベルがピンポーンと鳴ると、小走りで玄関に出て、途中でひっくり転げそうになってしまった。

ドアを開けると、ドアの向こうには日に焼けた娘が立っていた。「お帰り!」と笑顔で迎えた私は、娘の後ろにいた娘の恋人を見て、ひっくり転げるほど、びっくりした。娘が、

「こちら、私の恋人のロビン」と、言って、紹介してくれたのは、背が高く、短い茶色の髪をした白人の女性だったのだ。

著作権所有者:久保田満里子

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ああ、モンテンルパの夜は更けて(後編)

フィリピンはカソリック教徒の多い国である。キリノ大統領も敬虔なカソリック教徒だと伝え聞いた加賀尾は、ローマ法王にも戦犯の助命嘆願書を支持してほしいと手紙を書いた。ローマ法王は、加賀尾の「許しこそが世界の平和をもらたすものです」と言う文章に感銘を受け、キリノ大統領に、戦犯釈放をするようにと口添えしてくれた。加賀尾は、「日本人の処刑に関しては考慮します」とキリノ大統領から返事が来たことを、ローマ法王から知らされた。しかし、そのあとも大統領から減刑とか釈放と言う話は全く出てこなかった。

加賀尾は日本で集めた嘆願書をもってキリノ大統領に直訴しようと決心した。キリノ大統領との会見が認められたのは、はま子の訪問から半年たった1953年半ばのことだった。キリノ大統領に会うための準備をしていた加賀尾のところに、ある日、はま子から小包が届いた。開けてみると黒い漆器に金色の模様の入っている蒔絵の美しい箱が入っていた。同封されたはま子の手紙には、次のように書かれていた。

「私のファンだと言うオルゴール会社の社長が『モンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを特別に2つほど作って送ってくれたので、一つを加賀尾さんにプレゼントしたいと思います」

箱を開けると、あの物悲しいメロディーが流れて来た。その音に耳を傾けていた加賀尾は、やにわにこのオルゴールをキリノ大統領にプレゼントしようと思い立ち、フィリピンに行くために用意していた手荷物の中にいれた。

いよいよキリノ大統領との会見の日が来た。大統領の応接室に通された加賀尾は、緊張でコチコチになっていた。130名の人の運命が変わるかどうかは、自分がいかにキリノ大統領を説得できるかにかかっているのだ。緊張しないほうがおかしい。

「ハロー」と握手するために差し伸べられた大統領の手を加賀尾は握ったが、キリノの硬い表情を見て、一瞬ひるんだ。

「今日は、私のためにお時間を頂き、ありがとうございます。私は今まだ収容されている戦犯を日本に送り返していただきたいとお願いしにまいりました。500万人の嘆願署名を持ってきたのでご覧ください」と、10箱にもなった署名を渡した。しかし、大統領の顔は、無表情なままだった。加賀尾は焦りを感じながら、オルゴールを取り出し、

「これをプレゼントしたいと思いますので、受け取ってください」とオルゴールを大統領に手渡すと、

「これは何ですか?」と不思議そうに加賀尾を見た。加賀尾は箱のふたを開けてみせると、あの「モンテンルパの夜は更けて」のメロディーが流れ始めた。大統領は黙ってそのメロディーを聞き、曲が終わると、聞いた。

「心にしみるメロディーですね。これは何と言う曲ですか?」

そこで加賀尾は「この曲は実は死刑囚が作詞作曲をしたものです」と言って、歌詞を大統領に教えた。そして、「戦犯たちの家族は皆日本で待っております。また本人たちも日本に帰りたがっています。どうか、皆を日本に返してやってください」と深く頭を下げたが、その眼からは涙がぽろぽろ落ちた。

そのあと、どのくらい時間がたったか分からない。とてつもなく長い時間だったように加賀尾には感じられた。しばらく黙っていた大統領が、おもむろに言った。

「加賀尾さん、私は日本軍のために妻も三人の子供も殺されました。そして私自身が日本軍につかまり捕虜となり、毎日拷問されました。だから、絶対日本人を許すことはできないと思っていました。でも、この曲を聞いて、日本兵にも母親がいて、帰りを待っていると思うと、心を動かされました。戦犯をどうするか、考えてみましょう」

そう言った大統領の顔は、最初のにらみつけるような硬さがなくなり、柔和になっていた。500万人の署名にも心を動かさなかった大統領が音楽によって心を動かしたことに、加賀尾は驚くとともに、自分の使命が果たされた喜びに包まれ、

「ありがとうございます。ありがとうございます」とむやみやたらとお辞儀をしながらお礼の言葉を繰り返した。

それから間もなくして、54日本人戦犯にとって嬉しいニュースが舞い込んだ。その年の7月4日のフィリピンの独立記念日に、死刑囚だったものは終身刑に減刑され、他の戦犯は釈放され、全員日本に送り返されると発表されたのだ。大統領の命令による特赦であった。

この知らせを聞いた戦犯たちの歓喜の声が収容所に響き渡った。

「日本に生きて帰れるぞ!」

特赦のニュースを聞いた日本政府府は衆参両院それぞれの本会議でフィリピン政府の寛大な処置に対して、感謝決議を行った。決議書には次のように書かれていた。

「戦犯送還と言う恩恵を与えられたことは、一人本人およびその家族のみならず、日本国民のひとしく喜びとするところである」

加賀尾は念願がかなったことで、感無量であった。しかし、そんな感慨には、長く浸っておれなかなった。皆を連れて日本に帰る手続きをしなければいけなかった。それに処刑されたものも日本に連れて帰りたかった。処刑された17名の遺骨を、遺族のもとに返してやりたいと大統領に願い出ると、大統領は快諾してくれた。加賀尾たちは、土に埋められていた遺骨を掘り起こし、供養して、黒塗りの木箱に入れた。

7月15日、加賀尾は110名の元戦犯とともに、日の丸の旗を掲げた白山丸でマニラ港を出港した。皆囚人服から白いズボン、開襟シャツに着替え、晴れ晴れとした顔であった。その中には勿論代田と伊藤の顔も見られた。短い人でも9年ぶり、長い人にとっては15年ぶりの帰国だった。死刑囚の遺骨は、船の一等サロンに設けられた祭壇に安置された。

1週間の船旅は、帰国者全員、待ちわびる人に早く会いたいと言う思いで、長く感じられた。太平洋の荒波に船酔いを起こす者が続出したが、皆の心は高揚していた。7月22日午前8時半。やっと白山丸は横浜港に着いた。帰国者がデッキに出てみると、港は見渡す限り出迎えの人で埋めつくされていた。帰国者の家族は勿論、見も知らぬ人も、帰国者を歓迎するために来ていた。実にその数2万8千人にもおよんだ。その出迎えの中に勿論渡辺はま子がいた。皆が下船し、はま子との再会を喜び合った後、はまこはおもむろに歌い始めた。

「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない…」

皆はま子の歌に耳を傾けた。この歌が皆を解放してくれたと思うと、うれし泣きをする者も多くいた。

そのあと、釈放されたものは家族に会うため方々に散り、死刑囚から無期刑囚に減刑された者たちだけが残された。無期刑囚が収容されることになっていた巣鴨プリズンの所長は無期刑囚に言った。

「今から一時間の猶予を与えるから、家族に会って来い。ただし1時間たったら、必ずここに集合するように。解散!」

この所長の言葉は無期刑囚だけでなく、巣鴨プリズン職員をも驚かせ、職員の一人が聞いた。

「所長、もし戻ってこない者がいたら、どうするつもりですか?」

「皆もう長い間家族に会っていないんだ。だから、1時間だけでも、家族に会う猶予を与えてやりたいんだ。もし、帰らない者がいたら、その時は、俺が責任をとるよ」

その職員の不安は杞憂に終わった。全員時間通りに帰って来たのである。

その年の紅白歌合戦で、渡辺はま子は、「モンテンルパの夜は更けて」を歌い、拍手喝さいを受けた。

ちなみに、オーストラリア政府によって裁かれた日本人の戦犯は、今オーストラリア政府の設置している難民収容センターがあるパプアニューギニアのマヌス島に送られて、その島で処刑された人もいるそうである。

参考文献

「プリズンの満月」吉村昭 新潮文庫

文芸春秋2015年9月特別号「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 抄録 岡部長景「巣鴨日記」210-225ページ

文芸春秋2015年9月特別号 「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 A級戦犯・木村兵太郎(刑死)長男の訴え 父を靖国から分祀してほしい」198-205ページ

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「ああ、モンテンルパの夜は更けて」ウイキペディア

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」解説

JOG180渡辺はま子 伊勢正臣

渡辺はま子 ウイキペディア

ご存知ですか、見分「モンテンルパの夜は更けて」~BC級戦犯の命を救った人

 

著作権所有者:久保田満里子

 

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ああ、モンテンルパの夜はふけて(前編)

 戦争の話と言えば悲惨きわまるものと言う私の先入観を覆すような、心温まる話に出会った。皆さんにもこのお話をお伝えしたいと思い、書いてみた実話に基づくフィクションである。

 人気歌手の渡辺はま子は、NHKラジオ「陽気な喫茶店」の司会をしていた松井翠声から渡された手紙を読み返した。1952年のことである。手紙の送り主は加賀尾秀忍となっていた。

「突然お便りをするご無礼をお許しください。私はフィリピンのマニラ郊外にあるモンテンルパ刑務所の教誨師をしていた加賀尾秀忍と申します。皆さまご存知ないかもしれませんが、この刑務所には、戦後7年たった今も、日本人のB級C級(注:A級とは平和に対する罪、B級は人道に対する罪、C級は、捕虜の虐待などの戦争犯罪)の戦犯150名が収容されています。今年1月19日に14名が処刑されました。そのうち13名はセブ島での村民虐殺事件にかかわったと言う罪状でしたが、私が彼らから聞いたところによると、そのうちの半数近くがセブ島などに行ったこともないというのです。フィリピン政府は日本政府に対して80億ドルの賠償を要求していましたが、アメリカがサンフランシスコ講和条約で無賠償にしたことに対する腹いせから、突然死刑が執行されたと戦犯たちは言っております。真偽のほどは私には分かりませんが、フィリピンの刑務所で悲惨な状況で絶望的な気持ちで過ごしている人たちがいることを、日本の皆さんに知ってもらいたいと思います。そこで、渡辺はま子さんに是非戦犯の気持ちを歌った歌を歌ってほしいと思い、死刑囚の元憲兵、代田銀太郎氏に作詞をしてもらい、元将校の伊藤正康氏に作曲をしてもらった『ああ、モンテンルパの夜は更けて』の楽譜をお送りします。…」

はま子は、早速同封されていた楽譜を見ながらピアノでメロディーを弾き、歌ってみた。

「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない。遠いふるさと忍びつつ、涙に曇る月影に、やさしい母の夢を見る

つばめはまたも来たけれど、恋し我が子は、いつ帰る。母のこころは一筋に南の空へ飛んでいく。定めは悲し呼子鳥

モンテンルパに朝が来りゃ 昇る心の太陽を、胸に抱いて、今日もまた 強く生きよう 倒れまい 日本の土を踏むまでは」

はま子は歌っていて、胸にジーンときた。はま子自身収容所暮らしを経験している。陸軍の要請で、中国に派遣されていた兵士の慰問訪問をしていたはま子は、天津で終戦を迎えた。それから天津での1年間の捕虜生活で、毎晩不安と望郷の念に苛ませられたのを思い出したのだ。曲を歌い終わって、思わず涙ぐんだ目を拭いていると、いつの間にかそばに来て耳を傾けていたディレクターの磯部が 「悲しみが胸に迫ってくる曲ですね。何と言う曲ですか?」と聞いた。はま子が事情を話すと、「この曲をレコードにしましょう」と言ってくれた。その年の7月に発売されたこの曲は、またたくまに20万枚を超えるヒット曲となった。

この歌がきっかけになってはま子は加賀尾と知り合った。

 はま子は加賀尾に会うたびに、「モンテンルパの収容所に行って、戦犯の皆さんを慰問したいのですが」と言ったが、国交も復活していないフィリピンに行く手だてがなかった。加賀尾はこの歌が日本国民の間に浸透していくのをばねにして、精力的に囚人たちの助命嘆願のための署名運動に乗り出した。その成果があって、500万名もの署名が集まった。

はまこのモンテンルパ刑務所慰問の願いがかなったのは、1952年12月24日のことだった。はま子は直接フィリピンに行くのは難しいと判断して、まず香港に飛び、香港経由でフィリピンに入国をした。

この日、マニラ空港に降り立ったはま子を、元駐日大使のデュランが出迎えてくれた。デュランははま子のファンだった。その日は12月と言えども、マニラは40度にもなるムンムンするムシ暑い日だった。収容所に着くと、ステージには『歓迎 渡辺はま子さま』という横断幕がかかっていた。はま子は、すぐに作曲者の伊藤正康と作詞者の代田銀次郎と会った。二人は、はまこに「自分たちの歌を歌ってくださってありがたいです」と言うと、深く頭を下げた。そんな二人に、はま子は「いえ、こちらこそ素晴らしい曲を作ってくださってありがとうございます」と礼を言った。この時はま子は初めて二人に会ったのだが、全くの初対面と思えないほど、歌を通しての心のつながりを感じた。

ステージに立ったはま子の前には、期待に目を光らせてはま子を待っていたやせ細った囚人たちがいた。その120名ばかりの男たちの目がはま子に注がれていた。

「皆さん、やっときましたのよぉ」と言うはま子のハリのある声が会場に響き渡ると、客席から熱狂な拍手が沸き起こった。その拍手の渦は皆がどれほどこの日を待ち焦がれていたかを感じさせるものだった。はま子は、ドレス姿でまず彼女のヒット曲「蘇州夜曲」や「シナの夜」を歌い、途中で振袖に着替えて、暑い中を汗だくになりながらも、「荒城の月」「浜辺の歌」を歌った。一曲終わるたびに拍手の嵐が湧き起こった。いよいよ最後に「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌うことになった。はま子が歌い始めると、会場のあちらこちらから斉唱の声があがり、最後にはその歌声は大きなうねりのように会場にとどろいた。どの顔も涙で濡れていた。はま子自身、涙で声が詰まりそうになるのを必死に耐えて最後まで歌いぬいた。

曲が終わり、「皆さん、お別れの時間となりました」と別れの挨拶をしようと思っていたはま子のそばにデュランが寄ってきて、「君が代を歌いなさい」と言った。はま子は驚いてデュランの顔をまじまじと見た。天皇が戦争の元凶だと思われていた中で、日本軍によって被害を受けたフィリピンで天皇をたたえる歌を歌うことは、とうてい許されることではない。躊躇{ちゅうちょ)したはまこが見たデュランの顔は真剣そのものだった。「私が責任を持ちます」と言うデュランの力強い言葉に胸を打たれたはま子は、「皆さん、君が代を歌いましょう」と囚人たちに呼びかけた。すると、全員起立をして直立不動の姿勢をとると、日本のある北に向かって。皆が歌い始めた。涙で声がかすれている者も多く、中には感激のあまり途中で泣き崩れてしまう者もでた。皆君が代には万感の思いがあった。その歌を最後にしてコンサートは終わり、はま子は、もうこの人たちに会うことはないのだと思うと、後ろ髪をひかれる思いで、日本に帰国した。

参考文献

「プリズンの満月」吉村昭 新潮文庫

文芸春秋2015年9月特別号「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 抄録 岡部長景「巣鴨日記」210-225ページ

文芸春秋2015年9月特別号 「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 A級戦犯・木村兵太郎(刑死)長男の訴え 父を靖国から分祀してほしい」198-205ページ

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「ああ、モンテンルパの夜は更けて」解説

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